【元漫才師の芸能界交友録】第11回 水道橋博士① 漫才師憧れる契機に/角田 龍平
「水道橋を大きくしたみてぇだな」。30歳を超えているというのに「父ちゃん坊や」の私をじっとみつめて、そういったのはビートたけしだった。今から10年ほど前、たけしさんが司会を務める「平成教育委員会」に出演した時の一コマである。
妙に嬉しかったのを覚えている。「水道橋」は私が初めてサインを貰った芸能人だった。大阪のABCラジオで放送されていた「誠のサイキック青年団」と「ラジオパラダイス火曜日」は、マイ・フェイバリットラジオだ。「ラジパラ」のパーソナリティをしていたのが、浅草キッドの水道橋博士さんと玉袋筋太郎さんだった。地元の小学校では秀才だったはずが、6年一貫制の進学校で落ちこぼれ、ラジオに逃避していた中学3年生の私を虜にする魅力が「ラジパラ」にはあった。高校1年生の夏に「サイキック」のイベントで初めてみた浅草キッドの漫才は強烈なインパクトで、少年の進路を決定付けた。当時出版された「浅草キッドの芸能界地獄の問題集」に竹内義和さんが寄せたまえがきは、ふたりの漫才の核心を的確に言い当てていた。
「哲学的なこと、あるいは芸術的なことは、勉強さえすれば誰にでも語れる。また、下世話なこと、誹謗中傷っぽいこと、そして助平たらしいことなんかは、勉強せずとも口をついて出てくる。しかし、哲学的な下世話さや、芸術の域にまで達する下ネタは、そう簡単には語れない。浅草キッドのギャグは、まさしく哲学的にまで研ぎすまされた下世話や、芸術っぽい中傷が瞬時に交差する知的なスピードに満ちている」。
「地獄の問題集」には、小学生の頃は学業優秀で「末は博士か大臣か」と周囲から期待されていたのに、越境入学した進学校で落ちこぼれ、「ビートたけしのオールナイトニッポン」に傾倒していく博士さんの青春時代が綴られていた。その後、博士さんはたけしさんに弟子入り志願し、漫才師になる。私は博士さんの境遇に自分を重ね合わせて、秘かに漫才師という職業に憧れた。ABCラジオ祭りで博士さんから「地獄の問題集」にサインを貰い、さらにその思いは強くなる。
浅草キッドの漫才をみてから2年後。高校3年生になった私は内なる衝動を抑えられなくなり、関西テレビ「紳助の人間マンダラ」の企画でオール巨人師匠に弟子入り。上方漫才の登龍門である今宮戎新人漫才コンクールで優勝した。
漫才を辞めて、弁護士をめざすようになっても、博士さんのブログは欠かさずチェックし、受験勉強の気分転換に博士さんの薦める映画をみて、本を読んだ。
2009年6月14日。毎日読んでいた博士さんのブログに自分の名前をみつけた時は嬉しかった。「『クイック・ジャパン』のラジオ特集。角田龍平のインタビュー。印象的」。弁護士になった私は、「オールナイトニッポンR」のパーソナリティに抜擢されていた。
そして、12年10月5日。博士さんがトークショーの司会をした会場の控室を訪問し、「地獄の問題集」に20年ぶりのサインを貰った。この日を境に、私は博士さんから直接薫陶を受けるようになる。
筆者:角田龍平の法律事務所 弁護士 角田 龍平