【元漫才師の芸能界交友録】第14回 長州力 懐かしの大阪城ホール/角田 龍平
男は大きな体を折り曲げて、スタジオのセットの裏の僅かなスペースに腰かけていた。男から少し離れたところに出演者の数だけパイプ椅子が並んでいるというのに、座ろうとしない。天下の長州力なら椅子にどっかと腰かけても良いはずだ。しかし、そうしない不作為がいかにも長州らしかった。
バラエティ番組に出ることも珍しくなくなった長州だが、バックステージに用意された椅子に座らないのはテレビに居心地の悪さを感じているからだろう。もともと長州にとってプロレスのリングすら居心地の良いものではなかった。レスリングでミュンヘンオリンピックに出場した長州は鳴り物入りで新日本プロレスに入団したものの、長らく中堅レスラーの座に甘んじていた。競技者としては申し分なく強くても、プロレスはそれだけでは足りない。表現者としての強さも求められるのだ。寡黙な競技者だった長州は、アントニオ猪木のように憤怒や怨嗟をリング上で表現することに抵抗があったに違いない。
プロレス入りから8年が経過した昭和57年10月。長州は、“新日”で猪木に次ぐナンバー2だった藤波辰巳に「俺はお前の噛ませ犬じゃない!」と噛みついた。競技者としての強さで劣る藤波が自分より上のポジションにいることへの感情を隠そうとしなくなってから、長州は表現者としての強さも手に入れ一躍ブレイクする。
小学生になったばかりの私は、顔色のみえない戦隊もののヒーローよりも、全身から怒気を漲らせた長州が長い髪を靡かせリキラリアットを叩き込み、サソリ固めで締め上げる姿にカタルシスを感じた。長州率いる維新軍団はたちまち“新日”を席巻。ライバル団体であるジャイアント馬場の全日本プロレスに殴り込みをかける。
“全日”に参戦した長州は、昭和60年2月21日に大阪城ホールで天龍源一郎をリングアウトで破ると、11月4日には同所でジャンボ鶴田と60分フルタイム闘って引き分けた。
激闘から34年が過ぎた今年の9月16日。大阪城ホールを眼下に望む読売テレビの楽屋で、私は長州の入場曲「パワーホール」を繰り返し聴いていた。その日に収録するテレビ番組で、私は長州のエピソードを本人の前で解説しなければならなかった。前日にメールで送られてきた台本には、プロレスに詳しい専門家としてマスクを被りながら登場することになっていた。プロレスマニアの私がオリジナルマスクを作っていることを知ったスタッフが、私の見せ場を作ってくれたのだろう。鏡の前で、マスクを着けたり脱いだりしながら思案した挙句、マスクをそっと鏡台に置いて家を出た。子供の頃に憧れた長州の前で浮ついたところはみせたくなかった。
スタッフに「いくら探してもマスクは見当たらなかった」と嘘をつくのはばつが悪かったけれど、セット裏に所在なげに腰かける長州をみると、私の判断は誤っていない気がした。収録前に長州がブログを更新していたことを私は知らなかった。そこに掲載されていたのは、大阪城ホールを楽屋の窓越しに撮った一葉の写真だった。
筆者:角田龍平の法律事務所 弁護士 角田 龍平