【元漫才師の芸能界交友録】第15回 藤井フミヤ① 電波を通じ噂が伝播/角田 龍平
2017年夏。大阪はミナミのカラオケスナックで、僅かな段差の小さなステージに上がると、イントロを聴いたドラマーが笑みをもらした。「昔、ギャグで替え歌にしたなぁ」。
池乃めだか師匠とは年に幾度か、ふたりで飲みに行く仲だ。道頓堀のうどん屋で軽く腹ごしらえしてから、法善寺横丁を通り抜け、いつものスナックをめざす。かつて、音楽ショウのドラマーだっためだか師匠は、興が乗るとドラムセットの前に座りスティックを握る。
「♪ちっちゃな頃からちっちゃくて、15で背丈が止まったよ」。めだか師匠は吉本新喜劇の舞台でそう歌ったけれど、私は師匠の叩くドラムのリズムに合わせて原曲どおりにその歌を歌った。
チェッカーズが「ギザギザハートの子守唄」でデビューしたのは1983年のことである。小学校1年生の私は、クラスの男子でひとりだけ自転車に補助輪が付いたままだった。翌年に「涙のリクエスト」が大ヒットすると、こましゃくれた女子はチェッカーズの下敷きを学校に持って来るようになった。七五三を終えたばかりの少女が、リードボーカルのフミヤを可愛いというのだ。長州力に夢中だった私は、教室の片隅で友達にサソリ固めをかけていた。
15になっても、フミヤの歌う歌詞のように不良と呼ばれることはなかった。それどころか、中高一貫制の進学校の制服を着ていると、ボウリング場やゲームセンターで他校の生徒からよくカツアゲの標的にされた。そのうえ、男子校だったので、小学校を卒業して以来、女子と一言も会話をしたことがなかった。けれど、大学生の男女が織りなす恋愛を描いた「あすなろ白書」は固唾を呑んでみていた。ソロになったフミヤが歌う主題歌「TRUE LOVE」を聴くと、感情移入できる要素などなにひとつないのに涙がこぼれた。
カツアゲをされていた少年は、やがてカツアゲをする少年を弁護するようになった。水道橋博士の受け売りだが、「挨拶は身を守る鎧」だと、それができない少年に教えた。
「藤井フミヤさん、おつかれさまでした!」。17年秋から始まった「角田龍平の蛤御門のヘン」では、オープニングにフミヤさんへの挨拶を欠かさなかった。というのも、KBS京都ラジオでは水曜日の19時から30分だけニッポン放送の「藤井フミヤのオールナイトニッポンプレミアム」を放送していた。時計の針が19時半に差し掛かると、フミヤさんが「一部地域の方とはここでお別れです」と告げて、私の番組にバトンタッチするのだ。
とはいえ、全国ネットの番組のパーソナリティが地方局の個別の事情など知る由もない。京都からニッポン放送のある有楽町へ、届くはずのない挨拶を続けていると、噂話が有楽町に伝播し、「オールナイトニッポンプレミアム」から出演依頼が舞い込んだ。全国各地のラジオパーソナリティに電話をつなぐ企画に出演してほしいという。「交通費は自腹で結構ですから、電話じゃなくスタジオに行きます」。不惑を迎えた私にジャイアントキリングが起こった。
筆者:角田龍平の法律事務所 弁護士 角田 龍平