【元漫才師の芸能界交友録】第17回 池乃めだか ギャグを生み出す観察眼/角田 龍平
路地裏を軽やかに進む足取りは、とても後期高齢者とは思えない。小さな背中を後ろから追いかけていると、どこからともなく猫の鳴き声が聞こえてきた。前を行くそのひとは足を止め、辺りを見回して、姿をみせない声の主に呼応した。「ニャー」。
狭い路地裏にふたり佇んでいたが、猫は姿をみせようとしない。池乃めだか師匠の鳴き真似におびき寄せられたのは、私の郷愁だけだった。小学生の頃、吉本新喜劇でめだか師匠と間寛平師匠が繰り広げる「猫と猿の喧嘩」を初めてみた。めだか師匠演じる猫と寛平師匠演じる猿がじゃれ合っていると、次第に喧嘩へと発展。最後は猿が猫の背後に回り…。ふたりから学ぶ笑いと性教育が、関西の子供の必修科目だった。
2018年12月。KBS京都ラジオ「角田龍平の蛤御門のヘン」にめだか師匠がゲスト出演した数日後。事務所に一葉の葉書が届いた。葉書の表裏にびっしり書かれた丁寧な文字が懐かしかった。
めだか師匠と同じ1943年生まれの寺井先生は、国語と人生を教えてくれた中高時代の恩師だ。寺井先生が採点を終えた定期テストの回答用紙を返却すると、どの生徒も軒並み高得点だったことがある。「採点しているうちに、125点満点になっちまった」。照れくさそうにそう話す寺井先生は、採点しながら秀逸な回答に出くわすと、配点を超えた点数を付けてしまうのだ。寺井先生から送られてきた葉書には「貴方がめだかさんを尊敬する理由がよく分かりました」とラジオの感想が綴られていた。
番組では、めだか師匠に半生を語ってもらった。めだか師匠は、家庭の事情で14歳から一人暮らしをしていた。中学を卒業すると三洋電機に就職したが、8年半勤めた後に退職。音楽ショウ「ピスボーイ」のドラマーとして、1966年10月1日に初舞台を踏む。
ピスボーイのリーダーは、後に夫婦漫才で一世を風靡する正司敏江・玲児の玲児さんだった。当時の思い出を尋ねると、めだか師匠は半世紀前の情景を鮮やかな描写で再現した。
「アパートの雇われ管理人だった敏江さんが、アパートの掃除を終えると、生まれたばかりの娘さんを背中ではなく胸に抱き、アパートの前の大きな川のほとりで鼻歌を歌いながら子守りしてましたね」。
漫才師「海原かける・めぐる」として活躍した時代に話が及ぶと、めだか師匠はあるエピソードを披露した。
「京都花月の1階にあった薄暗い風呂に入ろうしたら、中から声が聞こえてくるので『何じゃいな』と風呂場に近づき戸の表に立つと、『漫才うまなりたい、漫才うまなりたい』と声がする。ガラっと開けたら、湯船の中にいたのは島田洋七君やった」。
B&Bが漫才ブームで時代の寵児になるのは、その数年後のことである。
めだか師匠と同じ「身の丈」のひとなら世の中に沢山いる。漫才を辞めて、吉本新喜劇に入団しためだか師匠が生み出した数々のギャグは、類い稀なる観察眼の賜物だった。四十を超えても「めだかの学校」で学ぶ必修科目が尽きることはない。
筆者:角田龍平の法律事務所 弁護士 角田 龍平