【元漫才師の芸能界交友録】第36回 明石家さんま③ 青年を運命付けた96年春/角田 龍平

2020.04.02 【労働新聞】
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93年のある夜、虜に…
イラスト・むつきつとむ

 明石家さんま研究家のエムカクさんは、1973年に福岡で生まれた。生後間もなく大阪に引っ越したが、彼の地では珍しくお笑いに関心のない物静かな少年だった。さんまさんが全国的に大ブレイクを果たすきっかけになった『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)も、同級生が教室で話題にするので存在は知っていたが、みたことはなかった。かといって、『ひょうきん族』と“土8戦争”といわれた熾烈な視聴率争いを繰り広げた裏番組の『8時だョ!全員集合』(TBSテレビ)をみていたわけでもない。バラエティそのものに興味がなく、テレビをみて大笑いすることなどなかった。

 1993年秋。エムカクさんはある夜突然に、“お笑い怪獣”の虜になる。悩みを抱えていた20歳の青年が、何気なく点けたテレビに映っていたのは、月曜深夜に今も放送している『痛快!明石家電視台』(毎日放送)だった。「さんまさん、(村上)ショージさん、(間)寛平さん、ジミー(大西)さんのやり取りをみているうちに、気付いたら布団の上で転げまわって笑ってたんです」とエムカクさんは姜尚中を彷彿とさせる低音の美声で述懐する。

 その夜を境に、遅咲きの狂い咲きが始まる。新聞のラテ欄でさんまさんの名前を探しては、出演番組をくまなくチェックするようになった。さんまさんがDJを務める『ヤングタウン』(毎日放送)で語る少年時代や修行時代のエピソードを聴くと、言い知れぬ高揚感を覚えた。

 1996年3月23日放送の『ヤンタン』で、さんまさんが「自分は本を書かない。俺は喋るのが商売やねんから、本で伝えるほどやわじゃない」と話すのを聴いて、エムカクさんは天命を知る。「さんまさんが話したことをずっと覚えておきたい」。本人の放送での発言を手掛かりに、『明石家さんまヒストリー』という年表づくりに着手した。

 さんまさんがラジオで話すこと全てを書き起こすため、一言一句聞き漏らすまいと録音したテープを繰り返し聴いた。再生と巻き戻しの反復に耐えられず、テープレコーダーはすぐに故障し、何台も買い替えた。当時、笑いの経典を写経した大学ノートは数十冊に及ぶ。

 2007年の暮れも押し迫った頃。『明石家電視台』の収録を終え、新大阪駅から東京行きの新幹線に乗り込んださんまさんの後を追う男がいた。京都までの新幹線の切符を握りしめたエムカクさんだった。

 「今年も一年、楽しい番組をありがとうございました」。本当は一年だけじゃない十余年の想いを込めて、さんまさんの07年の活動記録を纏めた冊子を差し出すと、さんまさんは「ああ、そうか、そうか、ありがとう」といいながら分厚い紙の束を受け取ってくれた。

 09年に入ると、エムカクさんは月単位のさんまさんの活動記録に自作のコラムも添えた世界に2冊だけの月刊誌の発行を始める。月に一度、エムカクさんが新幹線に姿をみせると、さんまさんと席を並べて帰京するもうひとりの読者の松尾伴内さんが「待ってました!」と声を掛けるようになっていた。

筆者:角田龍平の法律事務所 弁護士 角田 龍平

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令和2年4月13日第3252号7面 掲載
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