【元漫才師の芸能界交友録】第39回 井上章一② 市民社会に潜む八百長/角田 龍平

2020.04.23 【労働新聞】
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姿を消した両者リングアウト
イラスト・むつきつとむ

 司法の役割は、多数決原理が支配する政治部門でこぼれ落ちた少数者の権利を救済することにある。30年前、ミッションスクールに通っていた中学生の私は、木曜日になると宗教の授業をさぼって『週刊プロレス』を買いに行く異教徒だった。邪教を信仰する少数者を救済したのは、井上章一先生の啓示だった。

 〈市民社会ゆうのは、八百長くさいことばっかりで成り立ってると思うんですよ。結婚式のスピーチとか国会答弁とか、葬式の弔辞。みんなうすうす八百長やと思いながら、あんまりそういうことを言いたてずに生きていこうと。お互いの八百長くさいところには目をつぶりながら、あたかも本当のことを語りあっているような顔をして暮らすのが市民社会の論理なんです。その意味では、プロレスにもその市民社会の論理を体現しているところがあるわけですよ。あくまでもスポーツだという建前をとってますから。

 プロレスは八百長だからよくないと市民社会が言うのは、自分たちが八百長くさい暮らしを送っているからこそ、自分たち以外のどこかに、八百長という汚れ役をひきうけてもらいたいからなんですよ。プロレスを八百長だと軽蔑することで、市民社会の八百長性を隠蔽しようとしている。社会の恥部としてね。逆にプロレスファンには、自分の恥部に対する自己陶酔がある〉(『別冊宝島120』から引用)。

 プロレスをみて感じる恍惚と不安。アンビバレントな感情を、社会の合わせ鏡としてプロレスをみることで消化できるようになった。2年前、読売新聞の『もったいない語辞典』なる死語に纏わるコラムへ寄せた「両者リングアウト 玉虫色の決着」は、14歳の私の中に植え付けられた井上イズムの残滓である。

 〈両者リングアウト。子どもの頃、夢中になって観たプロレス中継では、タイトルマッチになるとそんな不透明決着を繰り返していた。観戦しているファンからすれば、モヤモヤが残る結末である。他方、レスラーと興行主には「三方一両損」ならぬ「三方一両得」をもたらす。①チャンピオンは引き分けにより王座を防衛し、②挑戦者はチャンピオンと引き分けたことでレスラーとしての格が上がり、③興行主は完全決着をうたい、再度興行を打てる――のだ。しかし、娯楽において「わかりやすさ」が最優先される時代の趨勢により、プロレスのリングから玉虫色の決着は姿を消すことになる。

 もはやプロレスではめったにお目にかかれない両者リングアウトだが、世の中には白黒決着をつけない方が良い場合もある。甲が乙に100万円を貸したが、口約束にすぎず借用書もない。そこで、甲が乙に民事訴訟を提起した場合。乙が甲に50万円支払うという和解をすれば、①甲は証拠不十分により敗訴するリスクを免れ、②乙は本来返すべき金額の半額を免れ、③裁判官は判決文を書く労力を免れる。民事訴訟での和解には、両者リングアウト的紛争解決機能があるのだ。あなたは、相手からフォール勝ちやギブアップを奪うことにこだわりすぎていませんか?〉

筆者:角田龍平の法律事務所 弁護士 角田 龍平

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令和2年5月4日第3255号7面 掲載
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