【元漫才師の交友録】第52回 土橋享② 「5年早い!」を勘違い/角田 龍平

2020.08.06 【労働新聞】
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若も困惑!!「ジョニ黒」事件の詳細は次回…
イラスト・むつきつとむ

 東映京都撮影所門前の喫茶店ミドリヤで待つ岳父土橋亨の前に颯爽と現れたのは、『コミック雑誌なんかいらない!』で1986年度キネマ旬報主演男優賞を受賞したばかりの内田裕也さんだった。黒革の帽子、レイバンのサングラス、黒鞣し革のロングコート。コートの下には黒のシャツ、ズボンはやはり黒の鞣し革。シェケナ・ベイベーな出で立ちとは裏腹に、「よろしく」と差し出した右手は汗ばんでいた。『花園の迷宮』の撮影で京都撮影所に入る前に、弟分の安岡力也さんを介して土橋に根回しを頼んできた裕也さんは、ある事件をしきりに気にしていた。

 1973年。深作欣二監督が京都撮影所で『仁義なき戦い』を撮り大ヒット。東映は“実録路線”へと舵を切り、明治・大正・昭和初期の着流しヤクザの様式美を描いた“着流し任侠路線”は主流から傍流へと追いやられる。同年、“着流し任侠路線”の立役者鶴田浩二さん主演で製作された『三池監獄 兇悪犯』は、日活のスター宍戸錠さんを起用してテコ入れを図った。初めての東映京都で、用心棒を引き連れて我が物顔で振る舞う“エースのジョー”は、セットに入るのも遅かった。自宅の庭を荒らされたようで鶴田さんとしては面白くない。忖度したのは、取り巻きの照明技師だった。鶴田さんは、ゆくゆくは監督になる助監督には厳しかったが、暑い時も寒い時も10キロライトを担いで苦労する照明技師には殊更に優しかった。「ガシャーン!」という大きな音と同時に、「ワァーッ」と悲鳴が上がる。宍戸さんの座る椅子の手前30センチに、スイカ大の2キロライトが狙ったように7メートルほど上から落ちてきた。真っ青になり呆然と立ち尽くす宍戸さん。以降、用心棒を東京に帰し、セット入りも早くなったという。この2キロライト落下事件が東京に伝わり、「東映京都は怖い」、「京都の照明部は恐ろしい」となり、裕也さんも警戒したのだ。

 1965年。大学を卒業して東映に就職し、京都撮影所に配属された土橋も、その洗礼を受けたひとりだ。山下耕作監督『花と龍』で、土橋はサード助監督としてデビューした。チーフ助監督が全体を、セカンドが人を、サードが小道具・衣装を統括する。クランクイン初日、土橋は主演の中村(後の萬屋)錦之助さんに「中村さん、ここに電話を置いときます。ここに来て、電話を取ってください」と声を掛けた。「監督がいってるの?」と錦之助さんに聞かれた土橋が、得意気に「僕です! 台本に書いてあります」と答えた瞬間だった。「そりゃ君の演出だろ!」という怒声が響き渡り、サイレント映画のような静寂が現場を支配した。錦之助さんの取り巻き連中が「若ッ!」と叫んで、駆け寄って来る。京都撮影所では、片岡千恵蔵さんが「山の御大」、市川右太衛門さんが「北大路の御大」、錦之助さんが「若」と呼ばれていた。「中村さん」呼ばわりする者などいなかった。「俺を演出するのは監督だけだ。5年早い!」。「えっ、5年で監督になれるんですか!」。若の叱責を反対解釈した無垢な映画青年が、真田広之主演『燃える勇者』で監督になるのは16年後のことだった。

筆者:角田龍平の法律事務所 弁護士 角田 龍平

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令和2年8月10日第3268号7面 掲載
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