【元漫才師の交友録】第53回 土橋享③ 萬屋錦之助に背負われて/角田 龍平
1965年8月。サード助監督になったばかりの岳父土橋亨は、東映京都撮影所で「若」と呼ばれる中村(後の萬屋)錦之助さんを「中村さん」呼ばわりしてしくじった。舌禍事件の翌朝、土橋ら裏方は、バス2台、トラック3台、ワゴン車1台で、国道2号線をひたすら南下。錦之助さん主演『花と龍』のロケ地、北九州若松に12時間かけて到着した。先に汽車で着いていた山下耕作監督は、前夜のことを気にかけて「飲みに行っておいで」と土橋に2000円を手渡した。2軒ほど飲んでホテルに戻ったが、飲み足らなかったので、ホテルのバーの扉を開けると、一人でスタンドに腰掛け、静かにグラスを傾けている男がいた。
錦之助さんだった。「まいったな」と思ったものの、引き返すわけにはいかない。二つ椅子を空けて腰を下ろすと、平静を装い、とりあえずビールを注文した。バーテンが、空のグラスを土橋の前に置く。と、その時、錦之助さんが矢庭にグラスへ手を伸ばし、ジョニ黒を零れそうなくらい並々と注いできた。錦之助さんは何もいわない。「飲めってことか?」。少し前まで学生だった土橋にとって、ジョニ黒なんて飲んだこともなければ、みたこともなかった。土橋はビールと同じ感覚で一気に飲み干し、グラスをポンとカウンターに置いた。「ほーっ」。初めて口を開いた錦之助さんは、再び空になったグラスに並々とジョニ黒を注ぐ。「飲んでやらぁ」。何とか二杯目を飲み干すと、わんこそばのようにジョニ黒が注がれる。土橋は三杯目に口をつけたところで、椅子ごと後方へもんどり打って倒れ、そのまま意識を失った。
土橋と相部屋だったチーフとセカンドの助監督、進行主任、進行は、さぞかし驚いたことだろう。彼らが起居する十畳間に、押しも押されもせぬスター「若」が、ペーペーのサード助監督を背負って入ってきたのだから。聞くところによると、慌てふためくバーテンを「いいからいいから」と制した錦之助さんは、土橋を背負ってエレーベーターに乗り、5階までやって来たという。「こちらで何とかしますから。若は帰ってください」。進行主任がそういっても、錦之助さんは「いいからいいから」と繰り返し、担いだ土橋を布団の上にドンと降ろした。その瞬間、土橋は飲んだジョニ黒、鯨のように吹き上げた。それでも、慌てず騒がず錦之助さんは、服を脱がせて、タオルで体を拭き、浴衣へ着替えさせると、笑みさえ浮かべて出て行った。
翌年、錦之助さんは東映を去る。東映が愛着ある時代劇路線から着流し任侠路線へと舵を切ったからだ。「ヤクザ映画には出ない」といっていた錦之助さんが、文芸作品だからと説得され、渋々出演を引き受けたのが『花と龍』だった。
ジョニ黒事件から13年後の東映京都撮影所。「『柳生一族』でチーフをやることになった土橋です」。「おーお前、まだ助監督やってんのか」。深作欣二監督『柳生一族の陰謀』で、錦之助さんは東映に帰ってきた。「若」の帰還にスタッフは沸き立ち、『柳生一族』は大ヒットする。
筆者:角田龍平の法律事務所 弁護士 角田 龍平