【想いはせれば】第146回 新たな事態こそ温故知新で

2021.01.13 【安全スタッフ】
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今から約60年前の昭和36年(1961年)の労災死亡者は6721人、休業8日以上の死傷者は約48万人、労働者千人当たりでは23.2件でした。令和元年の死亡者845人、死傷者(休業4日以上)約12.5万人と比較すると、当時は大変な状態だったことが分かります。

 そのころ(昭和30年後半)、私は常駐業者を含めて約1500人規模の化学工場の専任の安全衛生担当者でした。当時、社員の休業1日以上の労働災害は年間約40件、永久障害(一部労働不能)は5~6件でした。また、約300人の常駐業者の災害発生率は社員の2~3倍に上がっていました。職業性疾病では、急性の腰痛や中毒以外の慢性疾病は正確に把握されていませんでした。

このような状態は、私どもの工場に限らず、他の事業所でも同様で、特に事業場規模100人以下の中小事業場では2~3倍多い発生状況でした。このころ、炭鉱では1300人が死傷した三池炭鉱事故をはじめ、死傷者100人を超す事故が続き、わが社と同業の化学工場でも大規模な爆発事故などで多くの死傷者が発生していました。また、履物製作や印刷工場などで多くの有機溶剤中毒が発生し、労働安全衛生問題が社会の関心事になりました。

 当時、わが国では、東京オリンピックを控え、…

執筆:セフテイレビュー代表 末松 清志

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2021年1月15日第2370号 掲載
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